エル・フラメンコ そして竹内店長

新宿伊勢丹会館の6階に、1967年から現在に至るまで、

日本のフラメンコ界に多大な影響と歴史を残した「エル・フラメンコ」が、

9月の頭には閉店してしまう。

本当に残念で、そして寂しい。

まだ今のところ、普段通りにお店とショーは営業しているので

閉店と聞いても、今一つ、現実味を感じないのだけど、

もし、閉店してから伊勢丹会館の6階に行って、

あのエルフラがなくなっているのを目の当たりにする、

その瞬間を想像すると、

たまらなく寂しい気持ちに襲われる。




客の側から要望を言わせてもらうと、

そりゃぁ、これからも永遠に、エル・フラメンコは存在していてほしい。

でも、営業する側からすると、


◆ 6ヵ月もの間、日本に滞在できるスペイン人アーティスト達

◆ お客さんを楽しませ、また観たいと思わせるだけのレベルを持っている

◆ グループのトップを務める事の出来る踊り手を筆頭に、

  それに従う、踊り手達と歌い手、ギタリストを集める


これらを揃えるだけでも、えっらく大変な事だと容易に想像出来る。

もちろん、スペインにはこのような人材を集める事務所はあるとしても、

日本側だって、それが本当に良いグループなのか、

予備知識がかなりないと受け入れられないし、

6ヵ月の間、スペイン人達の中で何も問題もなく、

仕事をちゃんとしてもらって、お金を儲けさせてあげてスペインに帰国させる、

何でもない事のように聞こえるけれど、

エルフラが受け持つスペイン側への責任は、相当なものだと思う。

そして、フラメンコなどという特殊な舞踊を、年間通して

一般の人を対象に満席まで集客するのは本当に大変だと思うし、

きっと大きな額の赤字を保ちながらも、

日本国内で唯一存在する、”スペインのタブラオ” を

49年間ずっとずっと営業して、フラメンコ愛好家たちに楽しみの場を

提供し続けてきてくれたのだ。



エルフラに通っていらっしゃるみなさんは、もちろんご存知だと思うけれど、

背がひょろりとしていて、ものすごくお店の中を動き歩き回って、

口は悪いけど、そして人に対しての好き嫌いがハッキリしている(らしい)けど、

すっご~く親切で、すっご~く温かいお人柄の 『竹内店長』。

昔だけど、私のスタジオに来てくださった時  目閉じちゃってるじゃん
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以前、竹内店長に用事があって電話したら、

  店長: 「うるせ~な、今、仕事が忙しいんだよ」

          と言って、ガチャッと電話を切っちゃうから、

          私も負けじと、直ぐに電話をかけなおして、

    私: 「竹内さん、なんで電話切っちゃうのよ!用事があるんだっつーに!」

   店長: 「るせ~なぁ、 何だよ、その用事ってーのは?」

              と、超不機嫌な返答をするので

    私: 「竹内さん!ちゃんと用件聞いてよー!」

   店長: 「早く言えよぉ こっちゃいっそがしいんだよ~ ったく~」 だと。


まぁ世間一般でこんな返答をされたら、めちゃめちゃショックか

めちゃめちゃ腹が立って、もう一生顔を合わすもんか!と思うだろうけど、

なぜか、竹内店長とこんなやり取りしても、逆に可笑しくて、面白くて、

電話切られた後も、なんだよ~と思いながらも笑っちゃうのだ。

これも、竹内さんのお人柄を知ってるからかな。



んで、私が今日書きたいと思ったのは、

エルフラが閉店になるなんて夢にも思っていなかったので、

今まで口にはあまり出す機会がなかったのだけど

私は、エル・フラメンコと竹内さんに本当にお世話になり、

踊り手として成長させてもらえたのも竹内さんのお陰なので、

心から感謝の気持ちとお礼を言いたいのだ。



私が初のリサイタルをしたのは、1993年の3月、エル・フラメンコでだった。

1988年の2月に片道切符でスペインに渡ってから

5年間は日本に帰らず(帰れず)、

この5年、死にもの狂いでスペインのフラメンコの猛勉強に励んできたけれど、

今の自分は人様の前で一人だけの舞台を務めることが出来るのか? 

と思い、それならばリサイタルをやっているべと挑戦してみたくなり、

クルシージョという形で短期講習を始めたのは私が元祖なんだけど

これなら日本でフラメンコを責任持って人に教えられるかもしれないとも思い、

んじゃぁ、それを全部まとめてやってみるべ!と、

1993年に初めて日本に戻って、初めてクルシージョを開始して、

初めて自分のリサイタルをやったのだ。



その時以来、私はスペインを起点として日本とスペインを行き来していて、

日本にいる時に、竹内さんに少しずつ声をかけていただけるようになった。

今の時代、あり得ない事なんだけど、

竹内店長が、

「アミちゃん、今夜、スペイン人のショーのメンバー足りないから入ってよ」 と言って、

私がなぜか、普段やってるスペイン人のショーに入って踊らせてもらったり、

劇場で、私の舞台の千秋楽を迎えた次の日に、

「同じものをエルフラでやってよ」 と、竹内さんがエルフを提供してくださったり。

初リサイタル以来、ちょこちょことお声をかけてもらっていたのだけど、

2006年のエルフラ創立40周年記念の年から、

毎年、3月とか4月とかの1ヶ月の水曜日を全て受け持つように頼まれ

それを2013年まで毎年続けてやらせていただいた。

最後の方は、4週全て満席にするのが疲れてきて、2週とか1回のみとかに減ったけど、

昔からの私のお客さんは、毎年のエルフラでのステージを楽しみにしてくださった。




それにしても、エルフラでのステージ創りがどれほど勉強になったことか!

自分の踊りに対する責任はもちろんだけど、

エルフラのステージを提供していただく嬉しいチャンスと同時に

エルフラでのステージという、何か特別の雰囲気の責任感。

劇場と違う、でもちょっと劇場っぽいタブラオのエルフラで、

1曲、1曲をただ、アレグリだ、ソレアだといってお見せするのとも全く違う、

全体を通してクオリティーの高い一つのステージに仕上げなくてはいけない。

そんな、最高の勉強となるステージ。

エルフラでのスペイン人達のステージは、長年、佐々木孝尚さんが照明担当。

照明がコンパスに100%完璧に入る、彼の熟知されたフラメンコと見事な照明技術の合体。

そんな素晴らしい照明と、サパテアードの音のごまかしが一切きかない、

一粒ずつの音が気持ち良く聞こえる、エルフラの素晴らしい板質と音響も、

とにかく、フラメンコを踊るのに、全てにおいて完璧なステージ。

そんな素晴らしいステージで踊るチャンスを、長年与えてくださった竹内店長には

心からの感謝の気持ちしかない。




実は、、、2014年からさすがに疲れてきて、さらに別の舞台がたまたま

竹内店長が声をかけてくださる月と重なってしまい、2年、お断りしていた。

そしたら、なんと、今年で閉店になっちゃうとは。

そしたら先々月、

「ねぇねえ、8月28日(日)の夜、空いてっからサ、アミちゃん、やってヨ」 

と、竹内さんが穴埋めに私に声をかけてくださったのだ。 ←悪い表現

閉店と聞いてから、まさか踊らせてもらえるとは思っていなかった。



それならば、エルフラのステージに初めて立った時から

23年間もの間、たくさん大変お世話になってきた事と、

さらに、2004年に私がスペインから引き揚げて、日本で開設した頃から

私のスタジオに通って来てくれている生徒にも、

一緒にエルフラでのラストステージに立ってもらおうと思い、

私を成長させてくれたエルフラと竹内さんに

(実際には何のお礼も出来ないけれど) 心から感謝の気持ちを込めて、


    「 Con todo mi corazón 」 


という、心を込めて という意味のタイトルで、

エル・フラメンコに対してお礼の気持ちを込めて

ラストとなるステージに立ちたいと思ったのだ。

その時を考えたら、、、、ものすごく感慨深い気持ちになる。




エル・フラメンコ、 そして 竹内店長

本当に、本当に、今までお世話になりありがとうございました。

でも今のスペイン人のショーは、食事券が残ってるので後もう1回行くし ←なんつー

8月28日にどうぞよろしくお願いいたします。

心からの感謝の気持ちを込めて、私にとってエルフラでの

ラストステージを踊らせていただきます。


                                     5月22日
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# by amicielo33 | 2016-05-22 20:38  

          岡田昌已先生の公演

地獄のような忙しさの4月が過ぎ

もう5月になっちゃった。。。

4月は、忙しくて短く感じたんじゃなくて

忙し過ぎて、そして精神的に本当に大変過ぎて

ものすごく長~~い4月に感じられた。




4月25日・26日と開催された、恩師である岡田昌已先生のリサイタル。

このリサイタルの1週間後に、生徒発表会が控えているので、

昌已先生の舞台準備と、生徒発表会の準備が重なってみんなに迷惑をかけないように

練習日日程と、時間と、内容の進行を、このアホな頭で緻密に計算した。

なので、発表会についての進行は、なかなか上手く進んだのだけど、

マサミ先生の舞台準備は、週末はもちろん、クラスが終わってからもダッシュで駆けつけ、

毎日毎日、帰りが深夜になることが続いた。



それにしても、マサミ先生の、想像をはるかに超える あのパワーは何なんだ?

失礼だけど、あの年齢なのに、その辺の20代~30代の男たちより遥かに勝る、

恐るべき情熱とパワー。

まるで噴火直前の火山のマグマのようで、練習中、マサミという人間でなく、

怪獣マサミが火を噴いている姿にしか見えなかった。 
  ↑
 先生がこれ読んだら、怒ってホントに火噴くぞ

スタジオには、スペインからの男性舞踊手からミュージシャン達、

そして、あのエスペランサ・フェルナンデスも加わり、スペインからの団体様一同で

ゴッチャゴチャにスタジオが埋まってしまう。



みんな礼儀正しい紳士淑女の集まりだけど、

それでも自分の演じるものには熱が加わり、

自己主張が次々と始まる。

が、、その瞬間には、怪獣マサミが、ガオオオーーーッと炎を噴き、

さらに、マサミ先生の、スペイン人ですらも負ける、機関銃のような言葉の数で、

彼らをいっきょに黙らせる。  

シーン、、、 スペイン人達の沈黙。 

恐るべし、、、、マサミ。



マサミ先生は、昨年、膝の大手術をした。

このお年でのこんな大手術は、普通なら、数年かけてようやく歩けるようになるくらいで

膝に負担のかかる動きや、ましてや激しい運動やダンスなど、まさに御法度。

なので、膝に大負担をかけるサパテアードもやるフラメンコなんて、「ありえない」 のだ。

しかし、怪獣マサミは、やはり怪獣なのだ。

膝が痛くてたまらない、と言いながらも、

サパテアードもガンガンやるし、バンバン動くし、

酷使している分、膝に筋肉が付いてきて、日々身体の動きとキレがよくなっていったのだ。

あそこまでマサミを突き動かすものは、いったい何なんだろう。。。

スペイン舞踊に対する情熱?

自分に対する挑戦?そしてプライド?

本当に、本当に、本当に、ひたすら 脱帽 としか言いようがない。



このように書いていると、私は一歩引いて、冷静にスタジオでの状況を見ていたり

楽しんいたりしたように感じられるかもしれないけど、

いえいえいえいえ、

と~~~でもございません。
精神的にまいってしまうほど、ホント~~~にホント~~~に 大変でした。008.gif007.gif

出番はそれほどないのに、

怪獣マサミに絶えず激しい炎を噴かれ、

なんだろう、、、あの例えようのない、精神的な負担。

思い出しただけで、極度の疲労がドーッと出るので書くのはや~めとこっと。




でも結果としては、本当に素晴らしい舞台となり、

お客さんほぼ全員が興奮冷めやらぬ状態だったほど。

毎回、スペイン人達と舞台を一緒させてもらう度に痛感すること。

それは、やっぱりフラメンコはスペインのものであり、

どんなに外人が必死に頑張りまくったところで、決して、彼らのようには出来ない、ということ。

やっぱり、スペイン人はすごいや。

それも、今回のマサミ先生の舞台に、ハイレベルのスペインからのアーティスト達が

総出演して、そして彼らは全力を出して演じたので、

そりゃあもう すごい舞台になりまっせ。




でもでも! この舞台で一番スゴイことって、

こういう一流の凄いスペイン人達の総監督として、マサミは彼らをまとめ上げ、

台本から作り上げ、その内容にふさわしい人選をするために

何度もスペインに足を運んで、マサミの目と耳でアーティスト達を選び、交渉し、

エスペランサ・フェルナンデスも、本当ならこういう舞踊公演の形で来日するなんて

あり得ない事なんだけど、

マサミが、何ヵ月も前から、毎日毎日エスペランサに交渉して契約に至ったのだ。

「こんな情熱的に交渉する日本人は初めて!」 と言って、彼女がOKを出したのだ。

なんでマサミはこんなに凄いパワーがあるんだろう。




病気になりそうなほど大変だった日々だったけど、

マサミの生き様を見せつけられ、

一流のスペイン人達と一緒に演じる事が出来、

たくさんのフラメンコの栄養を吸収する事が出来た。

怪獣マサミに心から感謝。

あ、失礼!
恩師・岡田昌已先生 本当にありがとうございました!040.gif

それにしても、ホント、先生、疲れましたヨ~~~!!!




次に出演させてもらえる面白い舞台は (HP担当の人がGWでいなくて更新出来ない!)

8月4日(木)~7日(日) 草月ホールにて

上田遥さん振付けの 「カルメン ~ドン・ホセの告白!~」 

というのに出演しま~す。 上田遥さんの振り付の舞台は本当に面白いですよ!

カルメン役に、バイオリニストの川井郁子さん

ホセ役に、東山義久さんが語り演じます。

東山義久さんがリーダーである、DIAMOND DOGS というグループの

メンバーみなさんも出演。

彼らは超人気なので、チケットが売り切れてしまうことがあるそうです。

私のHP担当の人が戻ってきたら、すぐに詳細を載せますね。




でもその前に、4日後に迫る生徒発表会が無事に大成功しますように!

生徒達、ホントに素晴らしく頑張って練習して、メキメキと上達してます。

★発表会のチケットは、完売してしまい、当日券は出せません  すみません!

生徒達、みんなガンバレ~~!!!

                                    5月1日


いつもゴチャゴチャしてるスタジオ
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暑くてもダウンをずっと着てたエスペランサ
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踊り手ダビ・ペレスと音楽担当のオスカル
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これすごくない?舞台の上にいながら私のスマホで撮ったゾ!マサミとエスペランサ
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毎日、毎日、クラスの後に
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# by amicielo33 | 2016-05-01 21:14  

  前回の続編? セビージャとの出会い

もう、3月に入って2週間も経っちゃった。

時間が経つのが早過ぎるんだっつーに。

5月にやる生徒の発表会の準備も着々と始まり、

それに重ねて、岡田昌已先生のリサイタルの練習も重なり、

かなり、頭がグチャグチャな日々が続いている。



で、前回のスペイン生活のスタートの苦労話が、

読んでくださった方々にわりと受けたので、

こうなりゃ調子に乗って続編を書くべ!と思ったけど、

その続編の前に、私のその後の流れをちょっと書きたいと思う。




28年前にマドリッドに渡り、フラメンコを死ぬほど勉強し始めた6ヵ月目の時に、

セビージャで、ビエナル・デ・アルテ・フラメンコという、

昔から続いている大々的なフラメンコのフェスティバルが行われ、

そのビエナルの中で、「日本人の日」というのを、

ぺパ・モンテスという、その当時の有名な踊り手が企画して、

ぺパによるオーディションがセビージャで行われる、というニュースを耳にした。

フラメンコを勉強しにスペインに留学したからには、

ぜひこのチャンスを捕まえたいと思ったし、

‶いつかは、フラメンコが盛んなセビージャの土地も訪れねばなぁ” 

くらいの考えで (その当時、私はマドリッドの勉強が全てだと思って満足+充実していた)

そのオーディションを受けに1週間の予定で、セビージャの地を初めて踏んだのだ。

その当時は、もちろんAVE(スペインの新幹線)なんていう画期的な移動手段はないから、

オンボロの汽車に揺られて、8時間以上かけて行った。



そういえば、、、

途中のなんかわからん駅で汽車を乗り換えなくちゃいけなくて、

でも駅のアナウンスなんてもちろんないし、

「この汽車はセビージャに行きますか?」と聞いたら、

10人が10人、全く違う事を、自信を持っていうので、

こうなりゃ、イチかバチかだ!と運に頼り、目の前の汽車に飛び乗った。



発車して、ホームから出発した時に、一瞬不安がよぎったので、

この汽車は、セビージャ行きかどうか聞いてみたら、

こういう時に限って、車内の乗客たちが同じ意見で、口を揃えて、

「これはセビージャと正反対の方向に行く汽車だよ!」 と大声で叫ぶ。



ゲゲッ!!! えらいこっちゃ!!! 

でも汽車はもう、低速ながらもプラットホームから離れている。

えーっ!エーッ!どうすりゃいいの!!! と、私はパニくる!

そしたら、乗客全員が、

「飛び降りろ!!!今なら まだ間に合う!!!」 と、抜かすではないか。

えーーー!!!だって、汽車、走ってるじゃん!!!



すると、一人のオヤジが、私の荷物をガッと掴んで、

私を背中からグイグイ押して、走っている汽車の扉まで連れて行く。

さらに、何十メートルか先の方で線路の工事をしているオヤジ達に、

「今から、このChinita(チニータ)←中国の女の子 が飛び降りるから、

みんなで受け止めろ!」 と大声で叫ぶ。

そして乗客のオヤジは、先に私の荷物を汽車から投げ、

そして3、4人の工事のオヤジ達が工具を捨てて、汽車に走り寄ってきて、

Ven!!! Salta!!! 来い!こっちに飛べ!と、必死に手招きする。

乗客のオヤジは、ヨッシャ!行くぞ!と、私を扉から投げ落とした。

ギャッ!!!

そしたら、線路工事のおやじたちが、汽車から放り出された私を全力で受け止める!



ナ~イスキャッチ!!!

なんて、言ってる場合じゃない。 怖かったぁ~。

見事に私を受け止めてくれた工事のオヤジ達に100回以上のグラシアスを言い、

生まれて初めて味わった恐怖と興奮でヨロヨロしながらホームまで線路伝いに歩いて戻った。

昔は、このように、汽車に乗るのも本当に怖かった。

駅のアナウンス一切なし。

人々は、100%違ってても、全て知っているかのように自信を持って説明してくれる。

定刻になんて絶対に絶対に、汽車は出ないし来ない。

行先を書いた看板みたいなのも、間違ったままにしてあるから、わかりゃしない。

だから、その後、1992年のセビージャ万博のためにマドリッドとセビージャを結ぶ

AVEの新幹線が開通した時は、まさに「奇跡の乗り物」に思えた。



えらく、話が脱線してしもうた。

で、こうして命がけでようやくセビージャに着いた時、

カリカリに乾燥しているマドリッドに比べて、

なんとまぁ湿気のある土地だろう、というのが第一印象だった。

そして、ビエナル出演のオーディションを受けた後に、←結果、受かった

せっかくだから、セビージャのフラメンコスタジオを

ちょっと見学してみようと思い、

イスラエル・ガルバンのパパ(ホセ・ガルバン)が、やっているスタジオを訪ねてみた。




そこで私は、ハンマーと金づちで頭を思い切りブッ叩かれたほど、

人生最大とも言えるショックを受けたのだ。

この日が、私がフラメンコと本気で向かい合うきっかけとなった、人生初の日となったのだ。

というのは、、、、

スタジオには、5歳くらいから15歳くらいまでのガキンチョばかりが習いに来ている。

(もちろんその中に、ガキのイスラエルも、妹の小さなパストーラもいた)

そしたら、たまたまホセに突然用事が出来たとのことで、30分くらいスタジオから消え失せた。

ホセがいなくなった途端、ガキンチョ達はスタジオの中で遊び始めた。

男の子が半分以上いるので、ガキの典型的な遊びが始まって当たり前なのに、

なんと、ここのガキンチョ達は、「このパソカッコいいだろ」 てな感じで、

事もあろうに、プレリアのパソとコンパスで、

実に自然に、実に普通に、フラメンコで遊び始めたのだ。

5歳くらいの、ちっちゃいアリンコみたいな子達でさえ、

事もあろうに、3人くらいで向かい合って、キャッキャキャッキャと、

ふざけながら、タンゴのパソをやり合っているのだ。


‶ここまで、こんな小さなガキの遊びとフラメンコが自然体で密着してるんだ”

神様か誰かが、思いっ切り、私の頭をハンマーでブッ叩いた。


その近くで、ガキンチョのお母さんたちも、ホセがいなくなったので、

お母さん同士で盛り上がっている。

お母さんたちは、自分の子供達が、近々ホセの紹介の舞台に出るとの事で、

どんなフラメンコの衣装を作るか(お母さんたちの手作り)盛り上がり、

そして、その舞台で、ホセからいくらお金をもらえて、それを食費にするとかで、

自分の子供を将来フラメンコで稼がせるために、親が付きっきりで見張っている。

日本のように、お稽古事や趣味でなんかフラメンコはやらない。

こんな小さな子供でも、今から 「生きていくため」 の仕事を獲得するためなのだ。



‶生きていくために、ここまでフラメンコと生活が密着しているのか”

もう一度、神様か誰かが、金づちで思い切り私の頭をブッ叩いた。


あまりのショックで、ホテルまでの帰り道も、どうやって帰ったのかも何も覚えていない。

今まで見たこともない、聞いたことも、感じたこともない、

生まれて初めて知った、現地の生のフラメンコ。

子供の時から、生きるための手段として獲得しなくてはいけない、彼らのフラメンコ。

そして音の乗り方も、音の取り方も、踊りの振りの感じも、

ブラソ一つの動きも、足の音一つでさえも、

自分が、今まで信じて必死にやってきたものと、全然違う。

あまりにも違う。。。



いったい私は、マドリッドで何を勉強しているんだろう。。。

死にもの狂いで勉強しているフラメンコって、

技術を磨いているだけの、

フラメンコだと思い込んでいた、表面的なフラメンコの飾りの部分じゃないか、、、

私は、何をフラメンコと思って勉強していたのだろう。。。




今の時代なら、一瞬にしてネットでセビージャのフラメンコも、

どの土地のフラメンコも簡単に見れてしまうけれど、

あの時代の私は、セビージャとマドリッドにフラメンコの違いがあるなんて知りもしなかったので

実際にそれを初めて知った時の、打ちのめされるほどの大ショック。

今でもハッキリと、そのショックを受けた感覚を覚えている。



ここ、アンダルシアのセビージャで、本気で腹をくくってフラメンコの勉強をしないと、

私はスペインでフラメンコを学んだなんて、決して言っちゃいけない!

セビージャに住もう、いや、今から住まなくてはいけない!

身体から火が出たんじゃないかと思う程の、熱い想いが全身を駆けめぐり、

その強い決意で、即座に9ヵ月過ごしたマドリッドの生活に終止符を打ち、

セビージャに移り住み始めたのだ。

ここから、私にとって本格的なフラメンコとの闘いと、

そして、日本では決して味わえない、生活の苦労との闘いが始まったのだ。



フゥ~、042.gifここまで書いて、疲れた。

なんだか、自伝みたいになってきたゾ。

でも、いいよね、記憶の底に閉まってあった、

私の人生で最も、濃くて、辛くて、深くて、(ほんのちょっぴり幸せな時もあった)

フラメンコとの闘いの日々。

私の人生の整理として、こういう記録を書くのも、ま、いいか。

お時間のある方は、チラリと読んでやってください。


また、続編書きます。


                                3月13日
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# by amicielo33 | 2016-03-13 20:25  

      思い出した昔

今朝やっていた番組で、

「一人旅をしたい」 という言葉が芸能人たちの口から出て、

「一人で外国旅行をちょっとした時でも、

なんか、新しい自分、強くなった自分を感じられる」

という言葉を聞いて、

そうだよなぁ~、一人で見知らぬ外国に旅行したら、

さぞや、喜びと緊張と、そして怖さを味わって、

何かしら、自分に対して強さが生まれるんだろうなぁ~、

私も知らない外国に、旅行してみたいなぁ~」



と思った時に、

「充分に、自分で経験してるじゃん!!!」 

と叫び、

そっか、そうだったよな~~~ っと、何故か、たまらなくしみじみと、

過去の自分を思い出してしまったのだ。




今の時代、前回のブログに書いたように、

片手にスマフォさえ持ってりゃ、

その手の平サイズの機械で、

いつでも、どこでも、

その場で、超簡単に、

それも、ありとあらゆる情報を、瞬時に手に入れる事が出来る。

なんという、便利で贅沢な環境。

ガラケーしか持ってなくても、

家でも、仕事場でも、パソコンで簡単に情報が手に入っちゃう。




でも、私がスペインに留学した、今から28年前は、電話しかなかった。 

ファックスすらもなかった。

(私よりもっともっと昔に渡西した方達は、もっと不便だったと思う)

そして、私の若かりし頃の性格は、

‶もし何かあったらどうしよう” なんぞという、先の事を考えたり心配する事が出来ず、

行かねばならぬ、と思ったら、

とにかく行かねばならない、のみの、他の事はゼロの思考回路で、

スペインへフラメンコ留学に旅立ったのだ。




今の私なら、

スペインに着いたら、まぁホテルは日本から予約するとしても、

スペイン語を全くわからないで、その後の生活は?

と考えただけで、心臓バクバクになり、

冷汗が出て、トイレに飛び込みたくなる。


でも、昔の私なので、

片道の航空券だけを持って ←日本に帰る、ということは全く頭になかった

1週間滞在用のホテルだけ予約してもらって ←旅行会社で頼んだ

この二つだけを準備して、スペインに渡った。

もちろん、両親は心配でたまらなくて、色んな事を私に言いまくっていたのだけど、

完全に私の耳にフタをして、周りの人の心配してくれる言葉も一切耳に入れないようにした。



師匠の岡田昌已先生には、

「マドリッドのアモール・デ・ディオス(有名なフラメンコのスタジオ)は

アントン・マルティンという駅にある」

という事と、

「スタジオに行ったら、

メルチェ・エスメラルダ(あの時代、スペイン第一線の踊り手)のクラスを受けたらいい」

とだけ言われていた。



こうして、何も考えずに、イノシシのようにして日本を飛び出し、

旅行会社で予約を入れたホテルの位置とスタジオの位置関係もよくわからないまま、

夜遅く、マドリッドのバラハス空港に着いて、紙に書いたホテルの名前を

タクシーのオヤジに見せて、中心からかなり離れたホテルまで行った。

部屋に着いた夜中、喜びの全くない恐怖に包まれて、ほとんど寝られなかった。

ホテルは1週間分の予約を入れてあったので、

その1週間が全ての勝負の時、と決意して、

次の日から、本当に暗中模索状態でスタートした。



スペイン語がいっさいわからないので、聞くにも聞けず

とにかく、色んな地下鉄に乗り継ぎまわり、

ようやく、アントン・マルティン駅に着いた。

実際、駅から目と鼻の先にあるスタジオだけど、

生まれて初めて見る外国の、全てが石で出来ていて、犬のウンコまみれの路地。

スタジオがどこにあるかなどという、住所も電話も位置も、予備知識ゼロで、

手に持っている地図にフラメンコのスタジオなんて載ってるわけじゃなく、

道を聞くにも言葉もわからないし、人も歩いていないので、

結局、道に迷いまくり、泣きそうになりながら、

あの治安の悪い地区を歩き回って、ようやく、外からは全くわからない(看板などない)

アモール・デ・ディオスに奇跡的にたどり着いた。


門番の男性に ジェスチャーで、中に入っていいか聞いて、

やっとこさ、夢にまで見たスタジオの中に入ると、

夢とは真逆の、薄暗くて、汚くて、寒くて、穴ぐらかつ、恐ろしいほどの迷路のスタジオ。

嬉しさも、感動も、一切なく、

スタジオの仕組みも、システムも、どうなってんのか全くわからない。



それでも、「自習は毎日しなくてはいけない」 という、かたくなな思いはそこでも発揮し、

どうやってスタジオの門番の人に頼んだのか覚えていないのだけど、

とにかく、自習するために、空いているスタジオをジェスチャーで頼んで

毎日2時間ずつ、1週間分の予約だけはした。

自習してスタジオに通えば、

クラスがどのように行われているのかなどわかるので、

クラスを少しずつ取っていけばいいと思った。



次の日から、朝早くから自習でスタジオに入ったものの、

2月のクソ寒い時期で、あの古くてボロいスタジオには暖房なんてものは一切ないので、

寒くて、暗くて、みじめで、不安で不安でたまらなく、

でも、話す相手も誰もいなくて、

自習スタジオの椅子に座ったまま、涙がボロボロ出て、

そこで初めて、

「これからいったい私はどうなるんだろう。。。」、という

先が全く見えない、恐怖と不安で泣くしかなかったのを、今でも、鮮明に覚えている。




そして、2日、3日と日が過ぎ、

クラスは、全てのクラスを見学させてもらい、

3日目には、スタジオのシステムがわかってきたところで、クラスを2つくらい取り、

そこ辺りから、恐ろしく不安になり始めたのは、

1週間のホテルの滞在が終われば、

いったい私は、どこでどう生活をすればいいのか、という問題だった。



今考えれば、日本にいた時に、下宿先などの準備をしておけばよかったのに、

それすらも思い付かず、どうにかなるという、恐ろしい猪突猛進の考えだけしかなかった

超アホバカ思考なので、

そこで初めて、生活の場をどうしたらいいのか、途方にくれたのだ。

地球の歩き方の本も、ネットも、予備知識、情報は全く持っていなかったけど、

マドリッドにある、日本の銀行に行けば、日本人がいるはずだと思い、

いきなり、中心地の大きな三菱銀行に行き、

そこで、

「フラメンコの留学で来たのですが、スペイン語がわからず、

明後日からホテルの予約も終わり、生活する場所がないので、

本当に図々しくて、本当に厚かましくて申し訳ないのですが、

どうやったら、部屋をお借りできるのか

教えていただけますでしょうか?」 と、

最敬礼をしてお願いしたのだ。



きっと、私の顔は、切羽詰まった、必死の形相だったのだろう。

長年マドリッド在住の女性の方が直ちに、応対してくださり、

彼女の知り合いの、スペイン人のピソ(マンションみたいなもの)に連れて行ってくださり、

あっという間に、一部屋お借りすることが決まった。

その下宿先となるピソは、マドリッドの中心地の超高級地区にある、

昔からの典型的なマドリッド式の古い立派なピソで、

住んでいる未亡人の老婦人も、家系の良さそうな、エレガントな方だった。

だけど、その年代のご老人達は、昔はお金持ちだったとしても、

スペイン内戦の、経済的にも大変厳しい時代を生きていらしたから、

想像を絶するほどの、ケチだった。



借りていた部屋の、机の電気と天井の電気を付けて

椅子に座って、日本の家族に手紙を書いていたら、

そのご老人は、すぐに部屋に顔を出して、

ニコニコしながら 「勉強しているの?」 とか何とか私に話しかけながら、

片手はスッと、壁にあるスイッチに手が伸び、

天井の電気を消される。



シャワーを5分浴びていると、

「シャワーの時間が長いわね」、と言う。

台所のガスコンロを5分使うと、

「ガスをかなり長く使うのね」、と言う。


だから、シャワーは、頭を洗うのも含めて、極力3分弱、

食事も、冷凍野菜でご飯つぶがほんのちょっと入っている

日本円で100円くらいのものを、3分弱で炒めて、毎日それを食べていた。

部屋でも、机の電気だけでストーブもなかったから、

寒くてたまらなかったけど、

それでも、スペインでの生活が正式に始まり、

自炊もさせてもらえて、

「さぁ、これから本当に自分のスタートの時が来た!」 と、

この頃になって、ようやく、ほのかな喜びが湧いてきた。



と、長々と書いたけど、

今朝、この事を思い出して、

たまらない懐かしさと、(また次の機会に書くけど)スペインの生活の苦労を数々と思い出して、

自分がアホだった故に経験した山ほどの事と

あの時代だったから体験できた様々な事、があったからこそ、

自分が形成され、そして強くなったんだ、

と、しみじみと感じてしまったのだ。



それで、心の中で、思い出だけにしておくのもいいけど、

文字にして残しておきたいなと思って、ブログに書いてしまいました。



本当に、今の時代は、何をするにも便利だ。

しかし、なかなか情報が入らなくて、一つの事をするのにも

四苦八苦して探し求めて、やっと手に入れた時の喜びを知る、

そんな時代を過ごしてきた体験を通して得たものは、

今の自分の、最高の宝だと思う。

そして、その苦労が、今でも、自分を支える大きな柱となっているのを感じ、

『不便な時代を過ごした大切な経験』 に、心からの感謝の気持ちが強くわいてくる。



そういえば、電気や、電話や、、、、

あ~~~、セビージャでどんだけ苦労したか!

また書きます!


                                    2月19日
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# by amicielo33 | 2016-02-19 18:50  

  最近特に思うこと

今日は母の1回忌の日だった。

早いなぁ~、もうあれから1年が経つなんて。。。

天国から両親が応援してくれていると思って、

今年も頑張るからね!と、お墓で手を合わせて小さくつぶやいた。




ところで、今回書きたかったことなんだけど、

毎日のクラスで、つくづく思う事があるので、それを書こうと思う。

ここ5年前くらいから、特に感じるのだけど、

生徒達の、「観察力の低下」、

これが非常に激しいのだ。



私がフラメンコを目指していたペーペーの練習生の頃、

いつも先生方に言われていた。

「先生の教える動きや音を 『目と耳で盗みなさい』」 と。


これは大工さんや料理人や美術工芸品など、

身体や感覚を使って、一級品を作り上げる世界では、

きっと何百年も前の時代から、

師匠たちは、修行の身である弟子たちに、この言葉を言い続けてきたと思う。

なので弟子たちは、眼を全開にし、耳の穴をかっぽじって、

全神経を集中して、

師匠の一瞬の動きでも、空気の流れでも、

力の抜き具合でも、間合いでも、呼吸でも、どんな音でも、

何か一つでも、何としても、自分の身に付けたい一心で、

「目と耳で盗もう」 と、必死だったはずだ。



私ももちろんそうだった。

自分の目をカメラと化し、必死で自分の眼のシャッターを切りまくった。

そして耳もレコーダーと化し、良い音、悪い音、心地いい音、不愉快な音、

そして、心に届く音、など

人間の足で打つ音に、これだけの様々な音色が出る事に驚きながら、

それを一つでも自分の身に付けたくて、必死に、耳をダンボのようにして

音を盗み、それを自分で再現出来るまで、ひたすら練習をし続けた。



でも、便利な世の中、果てしなく便利になりまくり、

カセットテープからMDになり、それから高音質のレコーダーとなり、

最近では、携帯で録音し、その日に学んだ新しい振付を録画し、

クラスを休んだ仲間達には、それをLINEでポンと送り、

振付けやパソの、表面的なものは、超カンタンに手に入れる事が出来る。

だから、いつでも録音と録画が出来て、

どこにいても、その録音と録画に頼れて、という状態なので、

自らが必死になって観察しよう、というものが、

完全に薄れてきてしまっていると思うのだ。




大自然の中で生きている動物たちが、

厳しい環境の中で生き抜くために

絶えず、視覚と聴覚と嗅覚を研ぎ澄ませていなくてはいけないのに対し、

動物園で何の危険も、何の生活の変化もなく、

一方的に、何でも「与えられる生活」に慣れてしまっている動物たちは、

動物が持って生まれた「五感」が、すっかりと衰えて、

完全な受け身の生活に慣れてしまっている。



そう、人間の世界もこれだけ便利なグッズが世の中にあふれている今、

あまりにも、受け身の生活で成り立ってしまっている。

一方的に、情報が自分の手元に流れ込んでくる生活。

行動はもちろん、恐ろしい事に、思考回路ですらも受け身。

これからも、もっともっと限りなく、便利な世の中になっていくのだろう。

便利なのはいいけれど、

人間だからこそ出来る、新しい発想、発想による大きな変化や展開、

それによって成し遂げられる、大きな夢。

こういう事がどんどんと希薄になっていくのだろうか。。。



書いているうちにスケールがどんどん大きくなっちゃって、

収拾がつかなくなってしもうた。

ま、簡単に言うと、

踊りなどの稽古事は、

この瞬間を取らないと、もう二度と一生、手に入れられないと思う位の気持ちで、

「目と耳で盗む」。 (機械じゃダメなんです!)

そして、

「なぜ、あの瞬間を(先生は)感じた?」

「なぜ、あの動きをこの瞬間に(先生が)思いついた?」

などを、考える!
これをやんなきゃ、ダメなのだ!033.gif



と、私一人で、キーッとなったところで、

すっかりと、この便利な生活が身に沁み込んでいる人々は

一切変わるわけなく、

結局、同じ状況が続くのです。

ジャンジャン。
はい、終わり。015.gif


                                 2月12日

































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# by amicielo33 | 2016-02-12 23:50