<   2016年 03月 ( 1 )   > この月の画像一覧

 

  前回の続編? セビージャとの出会い

もう、3月に入って2週間も経っちゃった。

時間が経つのが早過ぎるんだっつーに。

5月にやる生徒の発表会の準備も着々と始まり、

それに重ねて、岡田昌已先生のリサイタルの練習も重なり、

かなり、頭がグチャグチャな日々が続いている。



で、前回のスペイン生活のスタートの苦労話が、

読んでくださった方々にわりと受けたので、

こうなりゃ調子に乗って続編を書くべ!と思ったけど、

その続編の前に、私のその後の流れをちょっと書きたいと思う。




28年前にマドリッドに渡り、フラメンコを死ぬほど勉強し始めた6ヵ月目の時に、

セビージャで、ビエナル・デ・アルテ・フラメンコという、

昔から続いている大々的なフラメンコのフェスティバルが行われ、

そのビエナルの中で、「日本人の日」というのを、

ぺパ・モンテスという、その当時の有名な踊り手が企画して、

ぺパによるオーディションがセビージャで行われる、というニュースを耳にした。

フラメンコを勉強しにスペインに留学したからには、

ぜひこのチャンスを捕まえたいと思ったし、

‶いつかは、フラメンコが盛んなセビージャの土地も訪れねばなぁ” 

くらいの考えで (その当時、私はマドリッドの勉強が全てだと思って満足+充実していた)

そのオーディションを受けに1週間の予定で、セビージャの地を初めて踏んだのだ。

その当時は、もちろんAVE(スペインの新幹線)なんていう画期的な移動手段はないから、

オンボロの汽車に揺られて、8時間以上かけて行った。



そういえば、、、

途中のなんかわからん駅で汽車を乗り換えなくちゃいけなくて、

でも駅のアナウンスなんてもちろんないし、

「この汽車はセビージャに行きますか?」と聞いたら、

10人が10人、全く違う事を、自信を持っていうので、

こうなりゃ、イチかバチかだ!と運に頼り、目の前の汽車に飛び乗った。



発車して、ホームから出発した時に、一瞬不安がよぎったので、

この汽車は、セビージャ行きかどうか聞いてみたら、

こういう時に限って、車内の乗客たちが同じ意見で、口を揃えて、

「これはセビージャと正反対の方向に行く汽車だよ!」 と大声で叫ぶ。



ゲゲッ!!! えらいこっちゃ!!! 

でも汽車はもう、低速ながらもプラットホームから離れている。

えーっ!エーッ!どうすりゃいいの!!! と、私はパニくる!

そしたら、乗客全員が、

「飛び降りろ!!!今なら まだ間に合う!!!」 と、抜かすではないか。

えーーー!!!だって、汽車、走ってるじゃん!!!



すると、一人のオヤジが、私の荷物をガッと掴んで、

私を背中からグイグイ押して、走っている汽車の扉まで連れて行く。

さらに、何十メートルか先の方で線路の工事をしているオヤジ達に、

「今から、このChinita(チニータ)←中国の女の子 が飛び降りるから、

みんなで受け止めろ!」 と大声で叫ぶ。

そして乗客のオヤジは、先に私の荷物を汽車から投げ、

そして3、4人の工事のオヤジ達が工具を捨てて、汽車に走り寄ってきて、

Ven!!! Salta!!! 来い!こっちに飛べ!と、必死に手招きする。

乗客のオヤジは、ヨッシャ!行くぞ!と、私を扉から投げ落とした。

ギャッ!!!

そしたら、線路工事のおやじたちが、汽車から放り出された私を全力で受け止める!



ナ~イスキャッチ!!!

なんて、言ってる場合じゃない。 怖かったぁ~。

見事に私を受け止めてくれた工事のオヤジ達に100回以上のグラシアスを言い、

生まれて初めて味わった恐怖と興奮でヨロヨロしながらホームまで線路伝いに歩いて戻った。

昔は、このように、汽車に乗るのも本当に怖かった。

駅のアナウンス一切なし。

人々は、100%違ってても、全て知っているかのように自信を持って説明してくれる。

定刻になんて絶対に絶対に、汽車は出ないし来ない。

行先を書いた看板みたいなのも、間違ったままにしてあるから、わかりゃしない。

だから、その後、1992年のセビージャ万博のためにマドリッドとセビージャを結ぶ

AVEの新幹線が開通した時は、まさに「奇跡の乗り物」に思えた。



えらく、話が脱線してしもうた。

で、こうして命がけでようやくセビージャに着いた時、

カリカリに乾燥しているマドリッドに比べて、

なんとまぁ湿気のある土地だろう、というのが第一印象だった。

そして、ビエナル出演のオーディションを受けた後に、←結果、受かった

せっかくだから、セビージャのフラメンコスタジオを

ちょっと見学してみようと思い、

イスラエル・ガルバンのパパ(ホセ・ガルバン)が、やっているスタジオを訪ねてみた。




そこで私は、ハンマーと金づちで頭を思い切りブッ叩かれたほど、

人生最大とも言えるショックを受けたのだ。

この日が、私がフラメンコと本気で向かい合うきっかけとなった、人生初の日となったのだ。

というのは、、、、

スタジオには、5歳くらいから15歳くらいまでのガキンチョばかりが習いに来ている。

(もちろんその中に、ガキのイスラエルも、妹の小さなパストーラもいた)

そしたら、たまたまホセに突然用事が出来たとのことで、30分くらいスタジオから消え失せた。

ホセがいなくなった途端、ガキンチョ達はスタジオの中で遊び始めた。

男の子が半分以上いるので、ガキの典型的な遊びが始まって当たり前なのに、

なんと、ここのガキンチョ達は、「このパソカッコいいだろ」 てな感じで、

事もあろうに、プレリアのパソとコンパスで、

実に自然に、実に普通に、フラメンコで遊び始めたのだ。

5歳くらいの、ちっちゃいアリンコみたいな子達でさえ、

事もあろうに、3人くらいで向かい合って、キャッキャキャッキャと、

ふざけながら、タンゴのパソをやり合っているのだ。


‶ここまで、こんな小さなガキの遊びとフラメンコが自然体で密着してるんだ”

神様か誰かが、思いっ切り、私の頭をハンマーでブッ叩いた。


その近くで、ガキンチョのお母さんたちも、ホセがいなくなったので、

お母さん同士で盛り上がっている。

お母さんたちは、自分の子供達が、近々ホセの紹介の舞台に出るとの事で、

どんなフラメンコの衣装を作るか(お母さんたちの手作り)盛り上がり、

そして、その舞台で、ホセからいくらお金をもらえて、それを食費にするとかで、

自分の子供を将来フラメンコで稼がせるために、親が付きっきりで見張っている。

日本のように、お稽古事や趣味でなんかフラメンコはやらない。

こんな小さな子供でも、今から 「生きていくため」 の仕事を獲得するためなのだ。



‶生きていくために、ここまでフラメンコと生活が密着しているのか”

もう一度、神様か誰かが、金づちで思い切り私の頭をブッ叩いた。


あまりのショックで、ホテルまでの帰り道も、どうやって帰ったのかも何も覚えていない。

今まで見たこともない、聞いたことも、感じたこともない、

生まれて初めて知った、現地の生のフラメンコ。

子供の時から、生きるための手段として獲得しなくてはいけない、彼らのフラメンコ。

そして音の乗り方も、音の取り方も、踊りの振りの感じも、

ブラソ一つの動きも、足の音一つでさえも、

自分が、今まで信じて必死にやってきたものと、全然違う。

あまりにも違う。。。



いったい私は、マドリッドで何を勉強しているんだろう。。。

死にもの狂いで勉強しているフラメンコって、

技術を磨いているだけの、

フラメンコだと思い込んでいた、表面的なフラメンコの飾りの部分じゃないか、、、

私は、何をフラメンコと思って勉強していたのだろう。。。




今の時代なら、一瞬にしてネットでセビージャのフラメンコも、

どの土地のフラメンコも簡単に見れてしまうけれど、

あの時代の私は、セビージャとマドリッドにフラメンコの違いがあるなんて知りもしなかったので

実際にそれを初めて知った時の、打ちのめされるほどの大ショック。

今でもハッキリと、そのショックを受けた感覚を覚えている。



ここ、アンダルシアのセビージャで、本気で腹をくくってフラメンコの勉強をしないと、

私はスペインでフラメンコを学んだなんて、決して言っちゃいけない!

セビージャに住もう、いや、今から住まなくてはいけない!

身体から火が出たんじゃないかと思う程の、熱い想いが全身を駆けめぐり、

その強い決意で、即座に9ヵ月過ごしたマドリッドの生活に終止符を打ち、

セビージャに移り住み始めたのだ。

ここから、私にとって本格的なフラメンコとの闘いと、

そして、日本では決して味わえない、生活の苦労との闘いが始まったのだ。



フゥ~、042.gifここまで書いて、疲れた。

なんだか、自伝みたいになってきたゾ。

でも、いいよね、記憶の底に閉まってあった、

私の人生で最も、濃くて、辛くて、深くて、(ほんのちょっぴり幸せな時もあった)

フラメンコとの闘いの日々。

私の人生の整理として、こういう記録を書くのも、ま、いいか。

お時間のある方は、チラリと読んでやってください。


また、続編書きます。


                                3月13日
[PR]

by amicielo33 | 2016-03-13 20:25