<   2015年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧

 

    私の母

3月中に、3つのブログを書くと自分で決めたので、

3月最終日になっちゃったけど、

私の母について書こうと思う。



実は、、、

先月の2月22日の日曜日に、母は天国に逝ってしまった。

早朝6時前に姉から電話が入り、

「病院に行って。 私も今すぐに行くから」、と。

ああ、ついにこの時が来たんだ、、、、と、

一瞬、心に冷たい血が流れ、

ぶるぶると震え続ける手足で、洋服に着替え、大急ぎで病院に行った。



看護婦さんに、「酸素を最大値で入れているんですけど、もう入っていかないですね」

と言われ、酸素マスクをしながらも、必死に、あえぐように呼吸をして、

苦しそうにしている母がベッドのなかにいた。

よっぽど苦しいのか、目をしっかりと開けて、

私達の顔を、じっと、必死に見る。

でも、どうしようもしてあげられないので、

「苦しいね、辛いね、ごめんね」 としか言えなかった。



日曜日だったのでクラスがあり、

こんな状況でも、きっと母は 「仕事に行きなさい」 って言うはずだから、

クラスが終わった時は、もう母はこの世にいない事を覚悟して

スタジオに戻り、普通通りにクラスをして、

そして、クラスが終わって、姉からのメールで、母は私が病院を離れた

45分後に天国に逝ってしまったのを知った。




母は、パーキンソン病の一種の、大脳皮質規定核変性症という、

要するに、運動機能を失っていく難病になっていた。

実に活発で社交的、水泳はお得意で、お習字は師範の腕前、

芸術が大好きで、いつも大感動しながら、様々な舞台や絵画を見ていた。

私が踊りの世界にいるのも、幼少から母が、

音楽や芸術に関する様々なものに、いつも連れて行ってくれたからだと思う。



母の場合は、アルツハイマーや痴呆のように記憶に問題があるわけではなく

思考回路、記憶など、実にしっかりとしていたので、

自分の思うように身体が動かなくなっていくのは、さぞや辛かったろうと思う。



そんな元気な母が、5~6年前から突然、転倒をするようになった。

父も13年前に亡くなり、母は一人で生活していた。

あれだけ活発に動き回っていた母が、

「お料理の途中で突然転んでフライパンをひっくり返して、後か片付けが大変だったのよ」、とか

「家の前の道で突然転んで、お隣の人に助け起こしてもらったのよ」、とか、

そんな話を、しょっちゅう聞くようになったので、

さすがに、もし夜に何かが起きたら大変なので、

特に、東日本大震災が起きた日から、

私は毎夜、クラスが終わったら、大急ぎですっ飛んで実家に行き、

母がお風呂に入り、そしてベッドに入るまでの世話をするようになった。

姉より私の方が実家に近い所に住んでいるし、どんなに遅い時間でも

私の方が姉より身軽に動くので、私が世話役をかって出た。




お風呂に入るまで一緒に付き添って、

私が一瞬、お風呂場を離れ、でも何か変な予感がしたので、急いで浴槽を見ると、

鼻と口と目だけが、かろうじて水面に出ていて、

驚いた私は、洋服ごとお風呂に上半身を突っ込み、

母をお湯から救い出したことも数回あった。

それにしても、浴槽に沈んだ人間の身体を持ち上げるのが、

恐ろしく重くて重くて、

どうしよう!! どうしよう!! どうしょう!!と、心臓がバクバクしながら

パニックにならないように自分に言い聞かせながら、がむしゃらに引き上げた。

今考えると、何てことない、お風呂の栓を抜けばいいだけなのに、

そんな時に限って、絶対に思い付かなかった。



私が家に着いた時に、床に倒れている母を発見し、

死ぬほど驚いて、慌てて起こそうとしても、

母は意識はハッキリしているのに、身体は蝋人形のようにコチコチに固まっていて、

20分以上、私は汗ビショビショになって母の身体と格闘して起こし上げたこともあった。

ある時は、床一面、血だらけになっていた。

母がトイレに行く時に転んで、テレビ台の角で顎を強打して切り、

訳がわからないまま、ベッドに横になったという。



もう、これ以上は一人で危険すぎて生活させられないと、

姉と苦渋の決断をして、24時間介護施設に入れた。

当然、母は、自分で何でも出来るのに、何でこんな所に入らなくてはいけないのか、と

毎日毎日、文句を言い続け、メールでも数分ごとに文句を言うので、

こっちがノイローゼになりそうだった。




しかし、母の意に反して、病気は少しずつ進行し、

全く歩けなくなり、

声は出るけど、言葉として全く発せなくなり、

食器も、スプーンですらも持てなくなった。

それでも、頭の中はしっかりしているので、

自分の言いたい事ややりたい事が伝わらないと、

イライラがつのって、介護の人を噛んだりした。

でも、私と姉には安心するのか、私達の話はよく聞いて理解して、

そして、実によく笑った。

申し訳ないけど、一生懸命にお世話してくれる施設の人には決して笑わないのに、

特に私の言う事、私の冗談には、廊下に響き渡るくらいの大笑いをし続けた。

「どうぞ、これ以上、病気が進行しませんように。。。」 と、

神様に毎日祈り続けるしかなかった。




そして、昨年の10月下旬に、その当時一番恐れていた、誤嚥性肺炎を起こした。

これは老人がよく起こすもので、飲み込みの力が弱くなると、食べた残留物が、

肺の方に入ってしまって、肺炎を起こすものだ。

施設から、電話がある度に、腹をくくって電話に出るのだけど、

やはり、「ついにこの時が来てしまった」 と、全身が凍り付いたのを覚えている。



ちょうどその頃、11月にあった大事な舞台、「PUNTOS Y LINEA 点と線」 の

舞台準備がものすごく大変だった時期だったので、

毎日、仕事と練習の合間に病院にダッシュで行って、

「お願いだから、舞台本番の日に限って死なないでよ!」 と

声に出さないで母に願い倒した。

生命力が強い母は、非常に危険な状態からなんとか持ち直し、

緊急病棟から、昨年末に長期療養型の病院に移動した。

もう身体は完全に動かないし、

満面の笑顔もなくなったけど、

意識はハッキリしていたし、話も理解できていたと思う。

目はしっかりと開いて、私の顔をじっと見る。

私は、必ず母にいろんな話をいっぱいした。

返事をしなくても、聞いていてくれる。

こんな状態の母でも、今、生きていてくれる、、、、 いつも、そう思った。



母が亡くなる前日も、お見舞い時間終了の時間まで横にいた。

手も足も真っ白になって、むくんでいたので、

早く良くなったらいいね、と、私は言いながら、

母の手足を一生懸命にマッサージした。

頭を何度も撫でて、顔に手を当てて、

「明日、また必ず来るからね。 安心してね」 と 母に言って病室を出た。 




こうして、翌朝2月22日に母は逝ってしまった。。。

母が亡くなった事は、決して、誰にも言いたくなかった。

ちょうど、一昨日書いた、小松原庸子先生の超ハードな舞台準備と

大阪の舞台準備と重なっていたし、

もし、誰かに母の死を告げると、

自分の気持ちが崩れてしまい、悲しみという世界に、一挙に落ちてしまいそうだったから。

だから、極力考えないように、そして、母は横で見守ってくれていると、自分に言い聞かせた。

お通夜の日も、告別式の日も、時間を上手く調整できたので

普通にクラスもやった。




明日、4月1日が母のお誕生日。

そして今週の金曜日が、母の納骨の日だ。

私がスペインに留学のために日本を出た時から、そして日本に戻ってからも、

私は仕事が忙しかったし、出かけるのが大好きな母も好きなように生活していたので、

それほど接点はなく、親孝行しなきゃと思いつつ、

それぞれで生きていた。

でも、母に異変が出始めてから、私が母の世話をすると決心して以来、

私が仕事や舞台でどんなに忙しくても、どんなに睡眠時間が少なくなろうと、

母の横にいるために、毎日毎日、ちょっとでも時間を見つけては、

実家と、施設と、病院に、通い詰めた。

もちろん、施設と病院の方々が、一番大変な下のお世話をしてくれたので、

その大変な部分は、私は横で見ていただけ。

だから、「介護をした」 などとは、決して言えないけれど、

私に出来る、母への全ての手伝いは、全てやった。。。

変な言い方だけど、そんな、納得の気持ちがある。




頻繁に転ぶようになる前、週1で母が通っていたアクアビクスに

私が迎えに行って、道中、必ずサミットで買い物をするのが習慣だった。

広いサミットで、母と私と別れてそれぞれで買い物をしていた時、

たくさんある商品棚の向こうにいた母と、たまたま鉢合わせになって目が合った時に、

母は、きっと、我が子にだけ投げかけてくれる、世界で一番優しい笑顔で、

私の顔を見て、微笑んだ。

その笑顔を見て、私はその瞬間、涙が溢れ出し、母が見えなくなった。

親が子供に対する愛情は、「無償の愛」 と聞くけれど、

正に、母が、全ての心と両手を全開にして、私に向けてくれた、

温かくて、優しくて、純粋で、真っ直ぐな愛情の笑顔だった。




桜を見に、母をいろんな場所に連れて行ったっけ。。。

「きれいねぇ~ あ~~~なんてきれいなの!」 って、いつも感激した母。

今朝、自転車に乗って私の大好きな善福寺緑地公園のお花見しながら、

母の笑顔と、笑い声を思い出しながら、また涙がこぼれた。

e0262970_21415969.jpg




いつもバカみたいに私を応援してくれた母。

天国の母が、そして父も一緒に喜んでくれるように、、、、しっかり頑張ろうと思う。


                                   3月31日
[PR]

by amicielo33 | 2015-03-31 20:36  

   大変だった3月の舞台

今月(3月)の13日(金)と15日(日)に、二つの大きな舞台があった。

13日(金)は、45周年という、約半世紀にも渡って、日本のフラメンコ界を

華やかに支えていらした、小松原庸子先生の記念公演。

池袋にある、「芸術劇場」 という、実に立派で素晴らしい舞台で、

「FLAMENCO 伝統とモダンを踊る」 という公演が開催された。
e0262970_23502935.jpg

この建物が芸術劇場



今回は、スペインのフラメンコピアニストの鬼才である、ドランテがスペシャルゲスト。

第1部は、舞踊団の人たちによる、フラメンコやクラシコエスパニョールのオンパレード。

第2部に、出演させていただいた 「Di, Di, ANA」 (ディ、ディ、アナ) という作品と、

ドランテと、コントラバスとドラムの、トリオによるコンサート。

そして第2部のラストは、東北の大震災の方々に捧げる、「ボレロ」の踊りだった。



そこで、私が出演した作品について説明したいと思う。

「Di,Di, ANA」 は、スペイン語で、‶アナ、話して” という意味だ。

ドランテが創ったCDの 「Sur」 の中に、この曲が入っている。



スペイン国内において、1936年9月に、フランコ将軍率いる右派反乱軍と 

左派共和国との間で内戦が始まり、1939年4月1日までの3年間の内戦において

死者15万人とも言われる、スペインで最悪の歴史を築いてしまった。

それ以来、40年ものフランコによる 『独裁政権』 が続いたのだ。



と、複雑なスペイン内戦の話を、超短く、たったの4行で書いてみたが、

このDi Di ANAの話も、ANA(全日空ではありませぬ) の愛する恋人が反フランコ派であり、

反フランコと言えば、あの時代で言えば、即逮捕、そして死刑という事なのだが、

そんな恋人とANAとの幸せな婚約式で、恋人が反フランコ派である事を誰かに密告され、

婚約式の最中に警察に捕まり、彼は強制的に連れ去られていく。

もちろん、それは死を意味するのだけれど、

その時以来、ANAは狂ってしまったかのようになり、

それ以来、30回目を迎える春も、同じバルコニーで彼が戻ってくるのを待ちながら、

シーツにジャスミンの刺繍をしている、という設定のお話なのだ。



庸子先生曰く、ドランテのCDの Di,Di,ANA の曲を聞いた時に、

なぜか真っ先に、スペイン内戦の状況が目に浮かび、

すぐに、「この曲を作品にしたい!」 と思われたそうだ。

それから、何年も構想を温めて、ドランテにこの作品について相談した時に、

ドランテのお婆様が、このANAと全く同じ状況にあった話を聞いて、

庸子先生の、‶内戦”、というインスピレーションと、ドランテの曲と、

ドランテのお婆様との運命的な繋がりを感じて、

思わず涙が出た、とお話しなさっていた。



実は、出演のお話を庸子先生からいただいた時に庸子先生が、

「この作品は私がずーっと創りたいと思っていたのよ。

そして、曲と作品のイメージをした時に ‶ あぁ、アミさんがいい!″ と思って、

それで貴方に出演してもらいたいと思って電話したのよ」、と言ってくださったのだ。

それを聞いた時に、とぉぉぉ~~っても嬉しくて、

電話をしながら、頭を何度も深々と下げて、庸子先生にお礼を申し上げた。040.gif

そして、2日間公演の両日の出演をお願いされたのだけど、

ずっと前から約束をしていた、大阪での公演があったので、

初日だけの出演にしていただいて、2日目は鈴木敬子さんがANAを踊る事になった。





で、、、ここで、話しは戻るのだけど、

庸子先生が、それほどこの作品に運命的な事を感じて、

長い間、これほどまでに熱い気持ちをこの作品に向けていらした、

という、ここまで 『この作品に熱い想いをもっていらした』 のを、

本番、舞台上、私が板付きポーズを取って、幕が上がるのを待っている時に、

初めて知ったのだ。




恋人が警察に強制的に連れ去られていった瞬間の、

ANAが床に倒れて、警官に「連れて行かないで!!」、と、泣き叫んでいるポーズを

取っている場面から、この作品は始まるのだけど、

その、ポジション的に、中腰のきつ~いポーズで幕開きを構えていたら、

幕の外で、突然、庸子先生のご挨拶が始まるではないか。

まさか、こんな時に庸子先生が、お客様にご挨拶するという段取りは

一切聞いていなかったので、

そのポーズのまま、「何でここで急に挨拶?」と思ったのだ。




そして、いつ突然、幕が上がるかわからなかったので、

キツいポーズを取ったまま、そのお話を耳にしていくうちに、

そこで初めて、庸子先生の、作品に対する熱い気持ちと経緯を知ったのだ。

そして、庸子先生が私に電話をしてくださった時に、

「ずっと創りたかった作品なのよ」 と、軽く話してくださった、その裏には

これほどまでに熱い想いと長い時間があったのだと驚き、そして

「そんな大役に私を選んでくださったのか、、、」 と改めて考え、

なんとありがたい事なんだろう、、、と、庸子先生への気持ちで胸がいっぱいになり、

キツいポーズを取ったまま、涙がこぼれ出てしまった。




と、ここまでは美談なんだけど、

実際は、ホントにホントに、苦労の連続の舞台だった。

あまり詳しくはお話しできないけれど、

全てにおいて、庸子先生が納得するまで、

舞台構成、曲内容、曲の長さ、振付け、立ち位置、衣装、etc、、、

これが、オーバーでなく、本番当日の最終リハーサルの後の、本番の幕開きの直前まで

変更、変更、変更、変更、の連続で起きるので、恐ろしいほどの不安が絶えず襲ってくる。

そして、次回のブログに書くけれど、

その時期、私は精神的にかなりキツイ状態で、それに加えてこの精神的プレッシャーが

日々繰り返し襲ってきたので、

あーーー!いったいどーすりゃいい?!いっその事、逃げ出すか?! という、

正直、逃亡寸前 までになってしまった。



でも、こんな状態でも、私の救いとなる、シアワセはあった。

それは、ドランテの素晴らしいピアノの生演奏で踊れた事。

彼の透き通るような美しく、そして奥が深くて芯の強い音が始まった時から、

彼の美しい音楽に、あっという間に吸い込まれ、

そして、我を完全に忘れて

彼の音の世界に、私一人だけでいられた事だ。

彼の音の世界に心が震えた。



しかし! 

ここでもまた一挙に現実に戻って話を進めると、、、、008.gif

ドランテも、曲の長さとかを、よく把握してない場面が多かったので、

特に、私のソロの部分では、かなりの即興で弾いてくれた。

それは嬉しいんだけど、、、彼の美しい音楽の世界から、フッと我に返って、

もうここで踊りをやめようかな~、と思ったら、

また新たに別の即興曲が始まってしまうので、

ありゃ~、始まっちゃった!何か踊らねば!と、踊り出すと、

ドランテも踊りに合わせて弾き続けてくれるので、

両者で、ネバーエンディング的になっちゃい、

ズルズルと長くひきずってしまった場面が、いくつか誕生してしもうた。



そんなこんなで、 私としては、精神的に非常にキツイ舞台だったんだけど、

本番直前に、庸子先生の作品への想いを聞いて、心のスイッチが入り、

微力だったけれど、庸子先生への心からの感謝の気持ちと、

何としてもこの作品を成功させなくちゃ、という責任感で、

私が出来る全ての事は全力でやり尽くしました、

という気持ちで終える事が出来た、そんな舞台となった。

e0262970_23382624.jpg

左から、ウッドベースのフランシス・ポセ ドラムのハヴィ・ルイバル 中央がピアノのドランテ
右から、私 踊りのフォアン・オガジャ 鈴木敬子ちゃん 



こうして本番が終わり、死にもの狂いで片づけをして、

ビデオの早送りのスピードで、出演者のみなさんにご挨拶をし、

猛ダッシュで帰宅し、狂ったように大阪行きの準備をして、

早朝7時半の新幹線に乗って、大阪に向かった。



大阪では、向京子さんという大阪で活躍している踊り手さんのリサイタルがあり、

その中に出演させていただいたのだ。

サンケイホールブリーゼという、ここもまた、とっても素敵な劇場での舞台だった。
左:宇根由佳ちゃん 右:向京子さん  リハの最中
e0262970_0344643.jpg



おい、マジメにリハやれ! 右の軽いヤツが私
e0262970_0585240.jpg




向京子さんが創った、「ミ・レフレッホ」 という、彼女の心の中を描いた、

とても凝った、そして重厚な作品。

文章にして書くのは、ややこしくて難しいので、省略するけれど、

実によく練られた良い作品だった。

その中で、「喜びの思い出」 の内容を、関西方面で大活躍中の宇根由佳ちゃんが踊り、

「痛みの記憶」 という内容で、私が踊った。

もちろん、作品を通して、メインとなる心の表情を向京子さんが踊り続けた。

舞台前日に、時間がないままドタバタでリハーサルを行い、

もう次の日は舞台本番ということで、

私としては、未だに庸子先生の舞台の残像が残っていたので、

頭と心の切り替えを、かなり必死にやらなければいけなかった。

でも、バックとの素晴らしい仲間達に支えられ、

抜群のチームワークで、大成功の舞台となった。

左から、ギターの宇根くん 私  由佳ちゃん 京子さん 中央がカンテのディエゴ・ゴメス 
右から カンテの阿部真くん ギターの伊集院さん バイオリンの三木さん
e0262970_0403353.jpg



あ~~~~~~~042.gif

それにしても、続けてあった2つの大きくて重要な舞台は、

本当に、本当に、大変でした。。。

疲れ果ててしまったので、少なくとも、3月いっぱい、心も身体も休めます。

って、今、休めてる最中です。

あ~~~~~~~ 疲れた。。。


                                   3月28日





















































彼は、
[PR]

by amicielo33 | 2015-03-28 19:04  

     コンクールについて

2月から続いて、ずっと先週の3月15日まで、

頭がヘンになるくらい超多忙なスケジュールだった。

何度も、あぁ~ブログ書きたいな、と思ったけど、

全く自由な時間というものを持てず、結局、今日に至ってしまった。

書きたかった事が少しずつたまっていったので、

自由になった今、自由の身になった我が身を改めて感じられるように、

あえて、3月中に3つの事を書く! という目標を持って、

本日、1個目のブログを書こう思う。



2月14日にマルワのコンクールの予選があり、私はその予選の審査員をさせていただいた。

過去、マルワのコンクールの審査を4回やらせていただき、

今回も、予選と決選の日の両方の審査を依頼されたのだけど、

前々から約束していた大阪の踊り手の方のリサイタルに出演するお約束をしていて、

ちょうどその舞台とコンクールの決選の日が重なったので、

予選だけの審査として、参加させていただいた。




ずーっと、最近のフラメンコについて考えていた事と、今回のコンクールの審査をして

書きたい事が一致したので、ますます、コンクールについて書きたい!と思ったのだ。


でも誤解していただきたくない事は、「マルワ」のコンクールについて書くのではなく、

「コンクール」、を審査するにあたって、審査員の立場で感じた事を書くので、

今回のマルワコンクールの結果について、は書かない。

それに、決選も観てないのでコメントは書けない。

決選の出演者のみなさんは絶対に素晴らしい踊りをしたのだと想像する。




さて、審査の話に戻って、、、

今回も強く感じたことだけど、

結局、点数を入れる対象となる大きな分け目となるのは、

持って生まれた「身体能力」が非常に高い人。

いったいどうなってんのかわからないくらいの複雑怪奇な動きを完璧にこなし、

超高速サパテアード、美しいブラソ、高速ブエルタなどなど、

ここまで高い技術力でキレッキレにバッチリ踊られると、

審査の立場としては高い点数を入れざるを得ない。

って、イヤイヤで点数を入れるのではなく、

すご~い技術と身体能力だなぁ~、と感心して、点数を高くつけてしまうのだ。




次に、「外見が非常に美しい人+ある程度踊れる人」、にもだ。

これは、人間の無意識なる美意識が感じる症状で、仕方ない。

残酷だけど、美しい人は美しくて得をする。

小さくて美しい顔、身長が高くて、腕も足も長く、髪の毛の飾りも綺麗で、

豪華な衣装を着ると、余計に美しさが生えるので、

それだけで、思わず見とれてしまい、

見せつけるような臭くてイヤミな踊りさえしないで、

世間一般で言う、上手な踊り、であれば、

やはり点数を入れてしまうのも正直なところだ。

外見の美をとても大切にするスペインでは、美人の踊り手は絶対に得である。




ここで、審査内容の順に書くと、

もちろん、「フラメンコをどこまで理解出来ているか。 フラメンコかフラメンコでないか」、

というのを念頭に置いた上で、

① 高い身体的能力で、超高度な技術力を持って100%の完成度で踊れる人

② 外見が美しく、80%以上の完成度で踊れる人

③ 本人の持つ感性や表現力が豊かな人

④ 舞台上での存在感があり、舞台を使える人

⑤ 振付け・構成の質

⑥ 後ろで支えてくれているアーティスト達との兼ね合い


などなど、このような事を点数に加えていく。

これは私個人の意見だけど、きっと他の審査員の方々も同じに、

多少審査の順番は違っていても、

こういう事を考慮して点数を加算している。



で、結局は、審査点が多く集まるのは、身体的能力の高い、技術力が凄い人であり、

そしてその見事さは感心するほどであるので、

審査点数結果に納得せざるを得ないし、当然の結果だとも、これまた納得するのだけど、、、



日本のフラメンコ舞踊の現状は、スペインの本当のフラメンコの味やフラメンコ性が

残念ながら未だよく理解されていないので、やはり、ふるいにかけられる

大きなポイントとなると、技術力の差、なのだ。

だから結局、「身体能力」 が飛びぬけて高い人が、コンクールでは賞を取る。。。

これは当然だし、ホントにホントに踊りが上手い、のだけど、、、

はやり、私の中ではモヤモヤが残り続けてしまう。


ううううう~~~~~ん、、、、高得点なのは納得なんだけど、、、015.gif

これだけ立派に踊れば、すごいバイレフラメンコと言うべきなんだろうけど、

でもなぁ、、、フラメンコって、これだけじゃないはずなんだけどなぁ、、、039.gifと、なってしまう。



スペインのバイレフラメンコの、味わいたっぷりの独特の間合い、空気、我慢、爆発、解放、、、

全てこれはカンテから受けて、感じて表現するものだけど、

その大切な核の部分が、今の時代、スコーンと穴が開いてしまっているんじゃないかなぁぁぁ。




私がセビージャに住んでいた時の話だけど、日本からフラメンコの勉強のために

セビージャに短期間いらした日本人の年配の女性の踊り手さんを

セビージャのスタジオでお見かけした。

彼女は、念願であった、有名なヒターノの歌い手とギタリストに伴奏をお願いして

全身全霊で踊っていた。

彼女の踊りには、技術がそれほどあるわけでもなく、さらに振付もとても古典的かつ、

超シンプルな踊りを踊っていらしたのだけど、


でも私は、 ‶あれ? なんだこの空気は?” と感じて、

その方の踊りを、そっと陰から拝見した。

すると、、、彼女の踊りから、


「私は人生を懸けてフラメンコを愛し、勉強し続けてきました。

この今の、貴重な時間を、大切に、大切に、踊らせていただきます」


という、実に謙虚で、そして静かで、でも凛としていて、

彼女が人生と共に積み重ねてきたフラメンコへの想いがいっぱいに詰まった、

美しい 「気」 が全身から溢れ出ていて、そしてまわりの空気の色を完全に変えていた。




そんな踊りを、私は目の当たりにして、衝撃を受け、

目を見開いたまま、ボロボロと勝手に流れ落ちる大粒の涙を拭くことも忘れて、

まるで金縛りにあったように、その‶尊い踊り” (ソレアだった)を見つめ続けたのを

今でもハッキリと覚えている。

そんな心に特別に敏感に感じる彼らは、その彼女の心を受け止め、

彼女のために彼らもまた、全身全霊で応えていた。

実に、尊いフラメンコであった。

日本人の踊りに、あそこまでフラメンコを感じて涙を流したのは、あの時が最初で最後だ。



そして、日本人でも、そして、日本の国の中で勉強をしていても、

それに、彼女のように不器用で(すみません!)、踊りのすごい技術が全くなくても、

スペインのフラメンコに対する、心からの敬意と強い愛情を持って、勉強をし続けていれば、

誰でも、スペインのフラメンコの魂を持つ事が出来、

スペインのフラメンコが、こちらに手を差し伸べてくれるのだ、と強く思った。



本来のスペインのフラメンコ舞踊って、

人生を歌い続けてきた歌い手が、心を込めて歌いかけてくれる、そのカンテに、

踊り手もギタリストも、

共に感じ合い、

人生の喜び、幸せ、嘆き、悲しみを、

たった1曲の中で、共にぶつけ合い、叫び合い、繋がり合える、

そんな幸せな、フラメンカな時を共有するのが、

スペインで受け継がれてきたフラメンコ舞踊だと思う。

もの凄い技術を、フラメンコの曲に乗って、見せつけるのが目的じゃないはず。




最近の、モダンで、超カッコイイ振付を見て、

誰もが憧れ、圧倒され、その振付をマスターするのに必死になってしまうけれど、

そうじゃなくて、

練習はもちろん山のようにしなくちゃいけないけれど、

自分の持つ能力の範囲で出来る動きで、

そして、心と身体の余裕を持って、カンテとギターに応えられる、

そんなフラメンコを大切にしなければいけないんじゃないかなと、強く思う。


「技術満載だけのバイレフラメンコは、フラメンコじゃないよーーー!」

そう叫びたい気持ちにさせてくれた、コンクールでした。


                                   3月19日
[PR]

by amicielo33 | 2015-03-19 23:59